邦画
あの星が降る丘で、君とまた出会いたい
01
あの星が降る丘で、君とまた出会いたいは前作のあの花が咲く丘で、君とまた出会えたら同様百合は何故、特攻隊員の彰に恋をしてまだ引きずっているのか理解に苦しむ。まず、現代に生きる女性が特攻隊員に恋をする事そのものが理解に苦しむし、何故泣くのか分からない。むしろ続編を作る必要はなかった。
02
前作が非常に感動的だっただけに、本作はプロの仕事とは到底思えない作りの甘さが目立つ、失望の続編となってしまった。128分という間延びした時間の中で描かれる展開は、エンディングロール後のカットに至るまで、物語の進行において不必要な要素ばかりである。
まず、学校を舞台にしていながら、そのリアリティがあまりにも欠如している。
生徒が大勢いる廊下で先輩教師が保護者からのクレームの説教を始めたり、副担任の大学院生が生徒の前で百合を「先輩」呼ばわりしたり、生徒が教員の個人スマホにメッセージを送ってきたりと、教育現場としてあり得ない描写のオンパレードである。いじめの場面でも、ノートを引き裂かせてから「やめなさい」と遅すぎる制止に入り、謝りもせずに去る生徒を追おうともしない百合の姿には、教師としてのハツラツさや説得力が全く感じられない。
また、メインとなる恋愛軸も致命的だ。涼というキャラクターは精神的に弱く、前作の彰の足元にも及ばない魅力不足。彼が子供のように何度も「好きだ」と連呼する姿には辟易させられた。「国語教師を目指す文系大学院生がいきなりイギリス留学」という唐突な展開も理解に苦しむ。
恋愛を前面に押し出しているにもかかわらず、肝心の主人公二人の恋愛関係に全く説得力がないため、終盤の花火のシーンもただの「感動の押し売り」にしか見えなかった。
唯一の救いは、倍賞千恵子氏演じる千代のエピソードである。彼女が百合の正体に気づき(タイムトラベルや予知夢といったトンデモ展開はさておき)、背中を押すシーンこそが本作で唯一胸を打つ場面だった。しかし、結局のところ本作は「昔の特攻隊の人たちのことは忘れて、現代の僕たちは幸せになろう」というお決まりのメロドラマに収束してしまっている。前作の余韻を台無しにし、映画としてのクオリティも著しく低下した、誰にもお勧めできない一作である。
03
本作のレビュー欄には「戦争の悲惨さを知った」「特攻隊員の思いを学んだ」という感動の声が溢れているが、正直うんざりする。泣いただけで戦争を理解した気にならないでほしい。観客が感情移入しているのはあくまで作者が作った架空の人物であり、史料でも証言でもないのだ。
本作の最大の問題点は、前作から7年が経過し、教師にまでなった主人公・百合の「思考の薄さ」である。戦時中にタイムスリップし、特攻隊員である彰と恋に落ち、彼の死を見届けるというとんでもない経験をしたにもかかわらず、彼女が導き出した結論は「戦争は悲惨」「命は大切」「夢を持てる現代は幸せ」という、小学生の平和学習レベルの陳腐なメッセージに留まっている。
7年もの間、彼女は何を学んだのか?なぜ彰は死ななければならなかったのか。なぜ日本は特攻という異常な作戦に行き着いたのか。なぜ戦争は止められなかったのか。本当に彰を愛していたのなら、その「なぜ」を歴史から学び、問い続けるのが当然ではないか。悲惨さを嘆くだけでは次の戦争は防げない。戦争が悲惨だと分かっていながら、なぜ人間は戦争を選んでしまうのかを考えることこそが「歴史を学ぶ」ということである。
それにもかかわらず、百合は戦争の原因を調べず、原因を問うこともなく、特別授業と称して自身の「思い出」を語るだけだ。これは歴史教育ではなく、ただの自己満足な情操教育に過ぎない。
最も皮肉で腹立たしいのは、彰という特攻隊員の死が、最終的に「だから現代を生きる私たちは夢を持とう」という現代人のための自己啓発・人生訓にすり替えられて消費されていることだ。特攻隊員を現代人の恋愛や人生を彩るための「舞台装置」として利用する無神経さに、強い憤りを覚える。本作は戦争映画ではなく、戦争をダシにした極めて薄っぺらい恋愛映画でしかない。